6月11日、市が主催した三光地区の真坂小、山口小、秣小、深水小の6年生を対象とした「まちなみ歴史探検」に、城下町の街並みを案内するボランティアとして参加しました。
このまちなみ歴史探検は、今年で3年目となる事業で、市内の小学校(23校)の6年生を対象に、城下町の街並みや歴史、文化を学ぶために、私がまちづくり推進室に在籍中に始めた事業です。
今回は、三光地区内の小学生59名が4班に分かれて、1日かけて城下町エリアを散策しました。
【南部小学校の生田門】
奥平藩の筆頭家老であった生田家の敷地が現在の南部小学校となっていますが、明治4年に福沢諭吉が建議して建てられた中津市学校の跡地で、中津南高、北高が最初に建てられた場所でもあります。
【中津城の大鳥居と復元された中津城のお堀】
中津城公園の入り口のお堀は、昔は埋まっていましたが平成13年度から7年間かけて堀の復元工事と石垣の修復工事を実施しました。この石垣は九州にある近世城郭で最も古く、1587年黒田孝高(如水)が豊前6郡の領主として入国した後穴太積という技法で積まれていることとが判明しました。
【中津城天守閣】
この天守閣は、昭和39年に奥平藩に末裔と市民の寄付で建てられたもので、本来この場所には天守閣はありませんでした。
石垣下の薬研堀には、中津祇園の山車の輪が埋められています。もうすぐ、掘り出されて山車が組み立てられます。
【福澤諭吉旧邸】
福沢諭吉先生が1歳と6ヶ月の時父が急死したため、天保7年(1836)秋、母子六人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。最初の住んだ家は残っていませんが、この宅跡前にその家がありました。今残されている旧居は、お母さんの実家の橋本家の家で後年に移り住んだものです。
【閻魔さまのお寺】
寺町にある円龍寺は、閻魔様のお寺として知られています。円龍寺にある閻魔像は、檀家の武士が旅先で閻魔大王への懺悔と信仰によって、仏道に帰依したため、山国川河畔に造立したものといわれ、のちに円龍寺に移されたと言われています。
【赤壁寺】
寺町にある通称「赤壁寺」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田孝高に従って姫路から中津に移り住んだ開山空誉上人が開基したと伝えられています。
その後、天正17年(1589年)、孝高が前領主の城井鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺を拠点として奮戦し最後を遂げ、以来、門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった、というのがこの赤壁の由来となっています。当時の激戦の様子は、現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されています。
【村上医家史料館】
諸町にある村上医家は、初代村上宗伯が寛永17年 (1640年) 諸町に医院を開業して以来、現在に至るまで医家として継続し数千点に及ぶ医学関係やその他の資料が残されています。1640年から現在まで連錦と続く村上医家の所蔵品とその建物を元に、村上医家の史料及び人体解剖に至るまでの医学の流れを中心に展示をおこなっています。